本年度はオーストラリア国立大学において客員研究員として研究活動を行った。その研究活動は、おおむね先に提出した研究計画に沿って進めることができた。研究成果としては、具体的にはインドネシアにおける「ナショナル」と「リージョナル」アイデンティティーの関係について以下の4本のペーパーを書き、研究会と学会において発表した。 |
1."Learning Two Languages Simultaneously; how to apply to Indonesian and a regional language", The 8-th Conference of the Australian Society of Indonesian Language Educators, カーティン工科大学、2005年7月3−5日。 |
2."Is the language situation in Indonesia changing?", Indonesia Council Open Conference 2005, フリンダース大学、2005年9月26−27日。 |
3. "Language Change and Regional Literature in Indonesia", オーストラリア国立大学アジア研究学部セミナー、2005年10月21日。 |
4."Language Change and Regional Literature after Soeharto", at Indonesia Culture Workshop: Arts, Culture and Political and Social Change Since Suharto, タスマニア大学アジア言語研究学部、2005年12月16−18日。 |
発表を予定していたマレーシアのクアラルンプールでの国際学会は開催されず、その代わりにタスマニア大学で行われた学会において論文発表を行った。上記のうち1番はインドネシア教育と地方語の教育の観点から「リージョナル」アイデンティーについて考察したものであるが、その他の論文は、近年のインドネシアにおける言語使用の変化を背景にして、「ナショナル」と「リージョナル」アイデンティティーの関係について論じたものである。論点は以下のとおり。 |
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19世紀に印刷技術を通じて生まれたマレー語の共同体とスンダ語の共同体はある意味で同時並行的に存在したものでありながら、それらを通じて生まれたそれぞれのアイデンティティーは補完的ではなくむしろ対立する関係が生じていたと考えられる。そして、その関係は独立後のインドネシアという国家において「ナショナル」と「リージョナル」の問題へと引き継がれていったようである。マレー語が国語としてインドネシア語と名称を変えると、19世紀にみられた対等で補完的な関係性は崩れ、一方が他方を従える関係へと変化した。 |
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特に、独立後の強権的な政権の下においては、「リージョナル」なもの、地方性は抑圧を受け、言語や文化においてそのアイデンティーを表現しようとする活動が妨げられた。 |
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言語については、一元的な国語政策が推進され、国語が普及したが、その一方でリージョナルな言語は後退を余儀なくされた。 |
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テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのメディアにおいても、国語となったインドネシア語(元「マレー語」)は、ますます勢いを増していく。それは19世紀における印刷メディアの時代とはまったく異なる種類の展開であった。 |
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一方で、スハルト体制崩壊後には、リージョナルな言語と文化からナショナルなものに対する反動が起こりつつあるのかもしれない。民主化の進展、インターネットなどの新しい技術革新による情報の大きな還流がその背景にあるようである。 |
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最後の論点については、今後の研究でさらに深めていく必要がある。 |