2006年度 パッヘ研究奨励金T-A-2(特定研究助成・一般)研究成果報告書

氏名 宮沢 千尋 所属 外国語学部アジア学科
研究課題 戦前・戦中の日本のアジアの臨地調査と戦争の関係
研究実績の概要
 当初、事例研究として、大川周明のいわゆる「大川塾」の卒業生たちの東南アジア、特に宮沢が専門とするベトナムにおける活動を、派遣された元塾生の所有されている資料や16歳からつけておられる日記、本人への聞き取りで行う予定であったが、元塾生の方が急逝されたため、申請したテーマでの研究は1年では不可能になった。

 そこで、大川塾生が、大東亜共栄圏の一環としてベトナム「独立」を目指す運動のなかで、独立回復後の国王に擬せられ、1915年から1951年まで、日本に亡命していたベトナム人のプリンス・クオンデが日本で行っていた活動を、外務省外交史料館や、宮沢が写真撮影していたフランス海外領土省史料館の史料に基づき、1920年代前半のクオンデの日本における思想と行動にテーマを変更した。

 その結果以下のことがが判明した。
 クオンデは中国にいるベトナム独立運動の同志たちと頻繁に手紙で連絡を取り合っていた。
―日本名や中国名の偽名を使い、早稲田大学や東京大学で講義を聴講したり、岐阜で養蜂を習ったりした。
―王政復古主義者であったにもかかわらず、ベトナム人の民智の向上を認識し、1910年代当初に持っていた愚民観を払拭していた。
―植民地高官へのテロなど、一回性の運動でなく、あらゆる機会を捉えて、言論活動でフランスの圧政とベトナム人の苦しみを訴える方針を立て、腹心陳福安が、大川の雑誌『日本』にベトナムの窮状を訴える原稿を書いたり、日本軍人と激論を戦わせた。
―1926年8月に長崎で行われた『全亜細亜民族会議』に、準備段階から陳と関わったが、その活動は日仏両当局の知るところとなり、身に危険が迫ったため、隠密行動を取らざるを得ず、大会初日、二日目とも会議に出席せず、旅館にこもっていたが、この行動も日本側に察知されていた。
―大会最終日の三日目、クオンデは突然、会議場に現れ、登壇し、日本語で長い演説を行った。内容は、全亜細亜の被圧迫民族の連帯を祝福し、植民地からの解放を訴えるものであった。また、ベトナム人が信仰する仏教は、「身を捨てて世を救うを以って心とし」、これは西洋の博愛主義と同じものであり、「儒教は徹頭徹尾人類愛である」と、アジアと西洋の精神文明が相似していることを訴えた。しかし、フランスのベトナムに対する圧政の部分は、傍聴していた日本官憲によって遮られた。
―演説を終えたクオンデは『国民新聞』のインタヴューに答えた後、身の安全をはかるため姿をくらました。 以上
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@ 論文題目 「クオンデ侯と全亜細亜民族会議長崎大会 ―東遊運動瓦解後のクオンデの思想と行動(5)」 @ 書名
雑誌名 『ベトナム-社会と文化』 出版社
巻号 7号 論文名
発表年月 2007年3月20日 発表年月
ページ pp.80〜109 ページ
著者名 宮沢 千尋 著者名
備考   備考  
A 論文題目 A 書名
雑誌名 出版社
巻号 論文名
発表年月 発表年月
ページ ページ
著者名 著者名
備考   備考  
B 論文題目 B 書名
雑誌名 出版社
巻号 論文名
発表年月 発表年月
ページ ページ
著者名 著者名
備考   備考