本研究は「地方機械工業」という視点をベースとして,首都圏に位置しつつも,工業だけでなく農業を含めた多様な産業が展開した埼玉県川越地方を事例に,両大戦間期の地方機械工業を支えた諸制度,特に実業教育と各種の公設・私設の試験場について,一次資料からその展開過程を明らかにした。具体的な史料としては,「川越商工会議所資料」,「三菱史料館所蔵資料」,「三井文庫所蔵資料」,「埼玉県公文書館所蔵資料」を用い,特に1930年代に地方展開を進めた総合商社の動向と結びつけた点に本研究の特色がある。具体的な研究結果は次の通りである。
第1に実業教育の役割については,全国的に明治後期に入ると,各地方の特色に応じて実業学校が設立されていくが,川越地方においても,同地域を周辺とした埼玉県南部の工業(ここでは織物業)の発展に対応する形で,地域に根ざした教育システムが整備された。川越地方では,地元の川越商工会議所の強い要請により,1908年に県立の川越染色学校が開校され,地元の染色業者の基盤的技術者層の育成に大きく貢献する。しかし,実業学校の役割は大正期に入ると変化し,基盤となる地域工業の変化に伴い,学校側も大きく変容を迫られた。具体的には,川越染色学校も,重化学工業系の色彩を強め,「地域型」からより広い範囲に人材を供給する「地帯型」へと変化した。
第2に試験場との関係では,実業学校と連携する形で地域工業の技術発展に寄与した。具体的には,試験場を核とした人的なネットワークの形成が重要であり,大正期に入ると,試験場を中心に技術教育も含めた体系的なシステムが構築された。「地域」との関係では,試験場の様々な諸機能(@技術者の養成 A民間機業家への技術指導 B各種技術開発 Cマーケティング活動)が有機的に結合され,地方工業の発展を支えた。しかし,第一次世界大戦以降になると,織物業を中心とした繊維産業自身の構造的な問題(産地間競争の激化,国際市場との関係など)が発生し,試験場自身の役割も後退していった。
第3に総合商社の動きについては,両大戦間期の川越地方の産業構造の変化(織物業→重化学工業)に併せて,機械取引を中心に,川越地方への進出を強め,既存の中小零細の流通業への圧迫を強めた。この点は,その後の「財閥批判」の底流を形成したが,商社の収益面では,大きく貢献し,ブロック経済化の進む1930年代にあって,貿易取引による取扱高縮小を最小限に食い止める効果を発揮した。 |
|