聖書和訳の歴史
キリスト教の日本伝道に向けて多くの海外の宣教師が聖書を基本と考え、まずは翻訳に注力した。本稿では、日本に神の御言葉を届けようと聖書の翻訳に文字通り心血を注いだ宣教師たちの労苦の跡を辿り、その成果に思いを馳せたいと思う。
本稿の構成は、以下のとおりである。
1.プロテスタントによる聖書翻訳 | (1) 漢訳聖書 (2) 和訳聖書(文語訳) (3) 和訳聖書(口語訳) |
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2.カトリックによる聖書翻訳 | (1) キリスト教伝来から17世紀初頭まで (2) 再布教以降(19世紀) (3) 和訳聖書(文語訳) (4) 和訳聖書(口語訳) |
3.日本正教会による聖書翻訳 | |
4.共同訳から新共同訳へ | (1) 共同訳 (2) 新共同訳 |
5.聖書協会共同訳 |
なお、原本が希少で本館に所蔵のないものは、復刻版あるいは複製版の所蔵情報を記載した。
また、広く参考に供するためカトリック文庫以外の本館所蔵データも記載している。
1.プロテスタントによる聖書翻訳
(1) 漢訳聖書
日本に聖書が伝来する際に重要な役割を果たし、和訳聖書の源流となったのが、漢訳聖書であった。すでに刊行されていた漢訳が聖書の和訳において参考にされたばかりか、聖書の各書名において、また術語において、それらを継承したものがきわめて多いためである。
① モリソン―ミルン訳
日本で漢文が用いられていることを知り、漢訳聖書を日本布教に役立たせようと聖書の漢訳を手掛けたのが、ロンドン宣教会会員のモリソン(MORRISON, Robert, LMS, 1782-1834)であった。モリソンは、英華字典の編纂を進めるとともに聖書の漢訳を進め、1810(文化7)年に『使徒行傳』が、1811(文化8)年に『路加傳(ルカでん)福音書』が木版印刷された。さらに、1813(文化10)年に新約聖書の漢訳である『新遺詔書(しんいしょうしょ)』8冊を広東で出版した。その後同宣教会会員ミルン(MILNE, William, LMS, 1785-1822)の協力を得て旧約聖書を翻訳し、1823(文政6)年に、『新遺詔書』に改訂を加えたものと旧約聖書の漢訳である『旧遺詔書(きゅういしょうしょ)』を併せて『神天聖書』全21冊としてマラッカで出版した。モリソンは、新旧約聖書全巻の漢訳を完成しただけではなく、その遺志がギュツラフ、ウィリアムズ、ヘボン、ブラウンと伝えられ、日本開教、聖書和訳の源流をなしたのである。
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② モリソン改訳
モリソンは1834(天保5)年に没したが、生前モリソン・ミルン訳の改訂の必要性を痛感し、息子のジョン(MORRISON, John Robert, 1814-1843)に託そうとしたが、ジョンは多忙だったため、ロンドン宣教会会員のメドハースト(MEDHURST, Walter Henry, LMS, 1796-1857)を中心として、同宣教会のギュツラフ(GÜTZLAFF, Karl Friedrich August, LMS, 1803-1851)、アメリカン・ボード宣教師ブリッジマン(BRIDGMAN, Elijah Coleman, ABCFM, 1801-1861)らが改訳事業を進めた。新約改訳は主にメドハーストが担当し、『救世主耶穌(ヤソ)新遺詔書』と題して1837(天保8)年にバタビアで刊行された。旧約改訳は、途中でメドハーストが一時帰国を余儀なくされたため、ギュツラフが大部分を担い、1838(天保9)年に『舊遺詔聖書』が、1840(天保11)年にはギュツラフによる再改定版の新約が出版され、モリソン・ミルン訳は不完全さを抱えながらも、プロテスタントにおける主要な漢訳の聖書本文として代表訳が世に出るまで用い続けられた。
③ 代表訳
モリソン・ミルン訳聖書は改訂を経つつ版を重ねたが、メドハースト(MEDHURST, Walter Henry, LMS, 1796-1857)らにより、早くから改訳の必要が指摘されており、1843(天保14)年英米プロテスタント諸団体の代表が香港に集まり、メドハーストを委員長とする翻訳委員会を発足した。1847(弘化4)年から3年間、引き続き検討を加えて改訳が完成、1852(嘉永5)年に上海で『新約全書』が刊行された。 『舊約(きゅうやく)全書』の翻訳は、1849(嘉永2)年末から着手されたが、委員会内の意見の相違から1851(嘉永4)年になって英国系宣教師たちが委員会を脱会して、新約と同じ方針に基づいて翻訳を進め、1854(安政1)年上海で刊行した。これは代表委員会の離脱者の手によるものであるが、先の『新約全書』と合わせて1858(安政5)年に分冊の形で香港から出版され、最初の代表委員会の方針で一貫されていたため、「代表訳」と呼ばれた。『舊新約全書』の表題で1冊本が出版されたのは1895(明治28)年以降であった。
④ ブリッジマン―カルバートソン訳
一方、委員会に残った米国宣教師たちは、アメリカン・ボード宣教師ブリッジマンとアメリカ長老派のカルバートソン(CULBERTSON, Michael Simpson, PN, 1819-1862)を中心とし、代表訳とは別の、独自の見解に従って改訂を進めた。ブリッジマン等による翻訳は、1861(文久1)年に『新約全書』を、1863(文久3)年に『旧約全書』を上海美華書館から出版、翌1864(元治1)年にかけて新約と合わせて『舊新約全書』として刊行された。
⑤ 訓点聖書
日本国内で和訳聖書が刊行され始めた後も、漢文の素養のある知識層には、日本語として違和感のある和訳聖書よりも漢訳聖書の方が受け入れやすく、明治時代には訓点をつけた訓点聖書が日本において作成された。米国聖書会社は1878(明治11)年以来各種訓点聖書を発行し、大英国聖書会社および北英国聖書会社は1880(明治13)年から訓点聖書を発行している。ブリッジマン・カルバートソン訳の『訓点新約全書』は1879(明治12)年、『訓点旧約全書』は1883(明治16)年に刊行され、1898(明治31)年まで版を重ねた。
(2) 和訳聖書(文語訳)
日本の開国とキリスト教解禁を見込んで、プロテスタント宣教師たちは、聖書の漢訳に加え、和訳事業を進めた。漢訳聖書は知識層を対象としていたが、漢文の読めない大多数の一般人への布教には、平易な和訳聖書が必要とされたためである。
① ギュツラフ訳
ロンドン宣教会会員のギュツラフは、1835(天保6)年英国商務庁の主席通訳官としてマカオに滞在し、そこで漂流民である尾張小野浦の漁民(岩吉、久吉、音吉)を保護した。以来彼らの協力を得て、モリソンの『神天聖書』などを参照しながら『ヨハネによる福音書』を翻訳し、1837(天保8)年『約翰(ヨハネ)福音之傳』『約翰(ヨハネ)上中下書(じょうちゅうげしょ)』をシンガポール堅夏書院にて木版刷で出版した。このギュツラフ訳が最初の和訳聖書と位置付けられる。
② ウィリアムズ訳
ウィリアムズ(WILLIAMS, Samuel Wells, ABCFM, 1812-1884)は、1833(天保4)年アメリカン・ボード宣教師として広東に到着し、ミッション印刷局の責任者として活動したが、禁教のため迫害を受け、1835(天保6)年マカオに移住、そこでギュツラフと親交を結んだ。ウィリアムズは、漂流民(尾張漂流民3名と肥後漂流民4名(庄蔵・寿三郎・態太郎・力松))たちの日本送還を名目に、モリソン号にて浦賀を目指したが、幕府の打払令により上陸できなかった。マカオ寄港後漂流民ら5名をしばらくの間引き取った後、肥後漂流民の庄蔵ら3名を印刷所で働かせ、彼らから日本語を学び、聖書の和訳を行った。でき上がったのが『馬太(マタイ)福音伝』である。この訳稿写本としては、1850(嘉永3)年の庄蔵写本が唯一残されているもので、ウィリアムズによるヨハネ福音書の試訳も5章9節まで収められている。また、1841(天保12)年までに『創世記』を和訳していたらしいが、その稿本は伝えられていない。
③ ベッテルハイム訳
英国海軍琉球伝道会から派遣されたベッテルハイム(BETTELHEIM, Bernard Jean, 1811-1870)は、1846(弘化3)年に家族を伴い那覇に至り、迫害に耐えながら宣教と聖書翻訳に励み、四福音書、使徒行伝、ロマ書を琉球語に訳した。その後、琉球政府より香港に送還され、1855(安政2)年に前述の琉球語訳を『路加(ロカ)傳福音書』、『約翰(ヨハネ)傳福音書』、『聖差言行傳(せいさげんこうでん)』、『保羅寄羅馬人書(ポウロロマびとによするのしょ)』として出版した。しかし、琉球語訳が日本人には理解が難しいことを悟ると、漢和対訳の新約聖書翻訳を企画し、1858(安政5)年にイギリス聖書協会より、漢和対訳『路加(ルカ)傳福音書』を出版した。ベッテルハイムの死後、1873(明治6)年に、『約翰(ヨハネ)傳福音書』、『路加(ルカ)傳福音書』、翌年には『使徒行伝』がオーストリアで出版された。
④ ゴーブル訳
日本国内で最初に翻訳聖書を出版したのは、アメリカ北部バプテストの宣教師ゴーブル(GOBLE, Jonathan, ABF, 1827-1898)である。彼が訳したマタイ福音書は、1871 (明治4)年に『摩太(マタイ)福音書』として東京で出版された。発音主義による平仮名書きで、平易な文体を用いていること、漢訳聖書の影響が認められないことは特筆すべきである。ゴーブルは、四福音書全体と使徒言行録も訳したとされるが、その稿本は残っておらず、また彼の翻訳は俗語交じりであることから、その訳文はあまり評価されていない。ゴーブルがバプテスト的見地に立つことから、特定の教派に偏らない翻訳方針を示していたヘボン(HEPBURN, James Curtis, PN, 1815-1911)の批判を受けた。
⑤ ヘボン―S.R.ブラウン訳
アメリカ合衆国長老教会外国伝道局派遣の宣教医として海外伝道を志していたヘボンは、1859(安政6)年日本開国の動きとともに日本宣教の決意を固め、10月ギュツラフの『約翰(ヨハネ)福音之伝』を携え神奈川に上陸し成仏寺に住んだ。ヘボンは、聖書和訳にも役立つ『和英語林集成』の完成に努め、1867(慶応3)年5月出版に至った。ヘボンは聖書翻訳の方針を、教派的でないこと、共同一致でやること、文章も平俗に流れず漢字まじりの文章体にすべきことを主張していた。1859(安政6)年11月アメリカ・オランダ改革派教会派遣のアメリカ人宣教師であるS.R.ブラウン(BROWN, Samuel Robbins, RCA, 1810-1880)も神奈川に上陸、ヘボンに迎えられて成仏寺に入った。S.R.ブラウンは、英語教授の傍ら伝道に努め、1863(文久3)年5月『英和俗語辞典』を出版する一方、ヘボンと呼応し聖書翻訳に従った。ヘボンもS.R.ブラウンも中国宣教経験があり漢文を読解したことから、漢訳聖書を参考に新旧約の各書の翻訳を行った。1867(慶応3)年4月、火災によりマタイ福音書とマルコ福音書以外の原稿を消失するというトラブルもあったが、アメリカ・オランダ改革派教会派遣のアメリカ人宣教師バラ(BALLAGH, James Hamilton, RCA, 1832-1920)、アメリカ合衆国長老教会外国伝道局派遣のアメリカ人宣教師タムソン(THOMPSON, David, PN, 1835-1915)および日本人の矢野隆山(やの・りゅうざん, 1815-1865)、奥野昌綱(おくの・まさつな, 1823-1910)らの協力を得て、焼け残りの原稿を基に、翻訳は続けられた。1872(明治5)年『新約聖書馬可(マコ)傳』『新約聖書約翰(ヨハネ)傳』が、1873 (明治6) 年『新約聖書馬太(マタイ)傳』が出版された。
⑥ 明治訳
1872(明治5) 年横浜ヘボン宅で第一回プロテスタント宣教師会議が開かれ、教派合同の聖書翻訳委員会(1878(明治11) 年までは翻訳委員社中)が結成された。第一回会合は1874(明治7) 年に開かれ、中国での代表委員会方式に倣った組織的な翻訳事業が始動した。原典に忠実なこと、新約については「公認本文」を用いること、問題の箇所は合議の決定に従うこと、などの方針が踏襲され、漢文調ではなく雅文調の訳文が目指された。翻訳は新約聖書から始まり、代表訳の『舊新約全書』、ブリッジマン―カルバートソンの漢訳聖書『舊新約全書』などが参照された。訳稿は分冊として1875(明治8) 年の『新約聖書路可傳』から順次出版された。17分冊が作られた後、再検討を踏まえて訂正した上で合冊し、1880(明治13) 年に1冊本の『新約全書』として刊行された。旧約聖書の翻訳については、1878(明治11) 年に「聖書常置委員会」が発足して進められ、28分冊が作られた後、1888(明治21) 年に『舊約全書』が完成刊行された。 これらの聖書は「委員訳」「委員会訳」などの通称のほか、「明治訳」あるいは大正改訳の元となったため、「元訳(もとやく)」とも呼ばれ、「明治元訳」という呼び方もある。
⑦ ネイサン・ブラウン訳
米国バプテスト宣教師同盟の宣教師として1873 (明治6) 年に来日したネイサン・ブラウン(BROWN, Nathan, ABMU, 1807-1886)は、1874 (明治7) 年プロテスタント宣教師たちが共同で聖書翻訳を目指す「聖書翻訳委員社中」の一人となったが、訳語を巡ってほかの委員と意見が合わず、1876 (明治9) 年委員を辞任した。その後、バプテスト派牧師である川勝鉄弥(かわかつ・てつや, 1850-1915)の協力を得て新約聖書の翻訳を進め、1879(明治12) 年に、俗語を交えた平明な文語体・平仮名書きによる『志無也久世無志與(しんやくぜんしょ)』を刊行した。日本で最初の新約聖書全巻の翻訳である。このブラウン訳は、川勝やイギリス・バプテスト伝道会社宣教師のウィリアム・ホワイト(WHITE, William John, BMS, 1848-1901)らによって漢字混じりの改訂を受け、ネイサン・ブラウン没後の1886(明治19) 年に横浜浸礼教会版『新約全書』として刊行された。
⑧ 大正改訳
明治訳は評価する声もあったが、完成直後から改訳の声が上がっていた。外国人宣教師たちを中心として訳業が行われたため、日本語が不自然であったこと、誤訳が散見されたことなどによる。1910(明治43) 年改訳委員会が発足したが、8名の委員の半数を日本人が占めており、最初から日本人が正規委員として関与した点が明治訳と大きく異なっていた。先ず試訳として1911(明治44) 年に『マコ伝福音書』が米国聖書会社、英国聖書会社から刊行された。この試訳に対しては様々な意見が寄せられ、委員会はそれらの意見を参照した上で、1917(大正6) 年改訳を完成させ、『改訳 新約聖書』として出版した。これは、「改訳」、「大正訳」、「大正改訳」などと呼ばれる。 明治訳も大正改訳も米国聖書会社、大英国聖書会社、北英国聖書会社の資金援助の下に行われた事業であり、1937(昭和12)年に設立された日本聖書協会に聖書翻訳事業は引き継がれる。 旧約聖書は1942(昭和17)年から改訳作業が進められたが、完成しないまま戦後になって口語訳に方針転換されたので、大正改訳には旧約聖書は含まれていない。 大正改訳は、明治元訳に比べて正確になったことに加えて、日本語として読みやすくなったことが評価されている。また、教会外の人にも多く読まれ、日本におけるキリスト教理解に大きく貢献した。 その一方で、文語訳は口語訳聖書刊行後も愛好者が絶えないため、日本聖書協会は明治訳の旧約聖書と大正改訳の新約聖書を合本して、『文語訳聖書』として出版している。
(3) 和訳聖書(口語訳)
① 口語訳(日本聖書協会)
第二次大戦後に採用された現代かなづかい、当用漢字の制定などによる国語の変化や聖書学の急速な進歩に対応するため、口語訳への要求が次第に高まってきた。1950(昭和25)年に口語訳聖書作成が決定され、翌1951(昭和26)年に、米、英両聖書協会の協力を得て、翻訳が始まった。この翻訳は、初めて日本人の聖書学者によってなされた。先に刊行されたのは新約聖書で、1952(昭和27)年から1953(昭和28)年にかけて各福音書と使徒行伝が分冊で刊行された後、残りも含めた全訳が1954(昭和29)年に出版された。旧約聖書は、1953(昭和28)年から分冊で刊行され、全訳は1955(昭和30)年に出版され、新約と旧約の合冊版はその年の内に刊行された。明治訳、大正改訳と違い、日本人の手でなしとげた最初の翻訳と言える。なお、口語体で書かれた和訳聖書はこの他にもカトリックのバルバロ訳など多種あるが、単に「口語訳」と言った場合には普通この1954年/1955年の日本聖書協会版を指す。ただし、「協会訳」「協会口語訳」といった呼び方も存在する。
② 口語訳(日本聖書刊行会)
主に福音派諸教会は、この「口語訳聖書」が近代聖書批評学の立場から訳され、神であるキリストの権威をおとしめているとする信仰的な反発から、口語訳聖書を批判した。そのため、いのちのことば社の協力を得て日本聖書刊行会が結成され、独自の翻訳が試みられた。新改訳と呼ばれたこの翻訳は1962(昭和37)年に始まり、ヨハネ福音書のみのパイロット版刊行(1963年)を経て新約が1965(昭和40)年、旧約は1970(昭和45)年に完成した。「新改訳」とは、文語訳聖書の「改訳」に対する敬意から付けられた名前である。翻訳に際しては、原典への忠実さ、翻訳の正確さ、聖書としての品位の保持などが掲げられた。また、礼拝での使用を重視し、耳で聞いて分かる訳文とすることにも配慮された。1978(昭和53)年に第2版、2003(平成15)年に第3版、2017(平成29)年に『新改訳2017』が刊行された。
2.カトリックによる聖書翻訳
(1) キリスト教伝来から17世紀初頭まで
キリスト教は、1549(天文18)年、フランシスコ・ザビエル (Francisco Xavier, SJ, 1506-1552)の鹿児島上陸により日本へ伝えられた。ザビエルの日本布教のきっかけとなったヤジロウの書簡から、ヤジロウがマタイによる福音書を(部分的にせよ要約的にせよ)翻訳した可能性はあるものの、実物は残っていない。1563(永禄6)年頃までには、イエズス会士のフアン・フェルナンデス(FERNÁNDEZ, Juan, SJ, 1526?-1567)が、『新約聖書』のうちの四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を翻訳していたらしいが、平戸の北部にある度島(たくしま)の教会の火災で原稿が焼失してしまった。 その後、『日本史』などの著作で知られるルイス・フロイス(FRÓIS, Luís, SJ, 1532-1597)が、典礼用に四福音書の3分の1ほどを訳すなど作業を続け、1613(慶長18)年までにはイエズス会が京都で『新約聖書』全体を出版したらしいことも確認されている。しかし、このイエズス会訳新約聖書は現存しない。日本語訳聖書の現存する最古の断片は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(VALIGNANO, Alessandro, SJ, 1539-1606)が編纂した『日本のカテキズモ』(カテキズム)の訳稿に近い和文で、ポルトガルのエヴォラ図書館の古屏風の下張りから発見された。1580(天正8)年前後と推測される最古の断片には、旧約聖書のコヘレトの言葉(3章7節)、イザヤ書(1章11節、16-17節)、シラ書(2章12節ほか)の断片が含まれる。他にも、福音書の受難物語部分をまとめた『御主ゼス キリシト御パッションの事』はフェルナンデスの訳稿焼失の前後にその写本が各地の教会で読まれていたらしいことが窺われる。これは1591(天正19)年にバレト (BARRETO, Manoel, SJ, 1564-1620) がまとめた、いわゆる「バレト写本」や、1607(慶長12)年に長崎で刊行されたローマ字本『スピリツアル修行』の中にも見出すことが出来る。これら二書に収められた『御主ゼス キリシト御パッションの事』はほぼ同一であり、フェルナンデス訳とは別に某イエズス会士によって訳されたらしいが、名前は伝わっていない。 『バレト写本』には、福音書の様々な抜粋が含まれており、その分量は福音書全体のおよそ3分の1に及ぶ。そのほか、カテキズムをまとめた『どちりなきりしたん』なども刊行された。しかし、日本におけるキリスト教は、前述のイエズス会訳新約聖書の出版がなされた頃から厳しく禁止された。1630(寛永7)年にはキリスト教関係の書物輸入が禁じられ、少なくとも表面上キリスト教文献は姿を消した。
(2) 再布教以降(19世紀)
日本のカトリック教徒は弾圧に苦しみ多くの殉教者を輩出しながらも、地下に潜伏し信仰を守り続けた。彼等への再布教は1844(弘化元)年のパリ外国宣教会宣教師フォルカード(FORCADE, Théodore-Augustin, MEP, 1816-1885)の那覇上陸に始まる。 開国の翌1859(安政6)年、フランス公使館付司祭として江戸に入った同宣教会宣教師ジラール(GIRARD, Prudence-Séraphin-Barthélémy, MEP, 1821-1867)は、1862(文久2)年1月横浜に天主堂を建立し、和文のカテキズムを作る準備を進めたが、ジラールの招きで1860(万延元)年琉球より横浜に上陸した同宣教会宣教師ムニクー(MOUNICOU, Pierre, MEP, 1825-1871)により、ようやく1865(慶応元)年に『聖教要理問答』として刊行された。 しかし、日本カトリック教会における最初の聖書の出現はその再布教以来、実に36年を待たねばならない。というのもカトリック宣教師達の主力は、浦上を中心とする潜伏キリシタンの末裔数万人の帰正に注がれ、彼等に正しい教理・典礼・祈祷文を教えるための教理書・祈祷書の改編を先決とせざるを得なかったからである。 1862(文久2)年に来日したパリ外国宣教会宣教師のプティジャン(PETITJEAN, Bernard-Thadée, MEP, 1829-1884)は、1865(元治2)年大浦天主堂にて潜伏キリシタンと劇的な邂逅を果たした(信徒発見)。プティジャンは、日本の信徒のために数多くの出版物を日本で刊行し、それらは当時非常に困難な状況に置かれていた信徒の教義理解の促進と布教活動の推進に大きく貢献した。プティジャンの最初の要理書が1868(明治元)年刊行の『聖教初学要理』である。こうしたカテキズムとともに『聖教日課』と題する祈祷書が1868(慶応4)年以来編集されている。本書には詩篇などの訳はなく、聖書関係としてはわずかに主禱文が見られるのみである。北緯聖会の1879(明治12)年以来の『公教日課』も同様である。 聖書に関連した出版物としては、プティジャンが手がけた1873(明治6)年刊行の『後婆通志與(ごばつしよ)』、および1879~1880(明治12~13)年刊行の『旧新両訳聖書伝』(小嶋準治訳)が挙げられる。前者は4福音書から御受難の事蹟を選び集め日時順に編んだものであり、後者は児童用の通俗的聖書物語である。その他に1880(明治13)年刊行の『耶蘇言行紀略(ヤソげんこうきりゃく)』があるが、漢訳の転訳であり解説的語句で福音書を結び合わせた総合福音書であり、聖書は布教のための断片的な翻訳が行われるにとどまった。
(3) 和訳聖書(文語訳)
① 高橋五郎訳
日本カトリック教会初の和訳聖書は、『聖福音書 上』(1895(明治28)年刊)と『聖福音書 下』(1897(明治30)年刊)で、ヘボン訳からは24年、翻訳社中訳の完成からは17年遅れている。この聖書はパリ外国宣教会宣教師スタイシェン(STEICHEN, Michael, MEP, 1857-1929)の口述に基づき、ウルガタ(カトリック教会公式のラテン語聖書)を底本とし高橋五郎(1856-1935)が訳したものであり、福音書毎に小引(解説)・目録が付され引照付である。さらに各章毎に章末に註釈があり、主な語句の説明がある。引照・解説が付くのはカトリック訳聖書の特徴であり、後のラゲ訳にも踏襲される。しかし、高橋五郎がブラウン―ヘボンの協力者であるだけでなく、その当時立教学校の教授であり一致教会に属していたことを考え合わせると、『聖福音書』はプロテスタント訳の影響を強く受けたものだと言えるだろう。
② ラゲ訳
『聖福音書』の後も日本カトリック教会には聖書全訳の業がなく、見るべき聖書的著述も数編あるにすぎなかった。しかし、パリ外国宣教会宣教師ラゲ(RAGUET, Emile, MEP, 1854-1929)が鹿児島県山下町教会に在任中、ウルガタを基にギリシャ語聖書を参照、伝道士加古義一(かこ・ぎいち)の助けを受け新訳聖書の完訳を試み、1905(明治38)年頃脱稿した。それを当時の第七高等学校講師小野藤太(おの・とうた, 1870-1916)、武笠三(むかさ・さん, 1871-1929)、二松学舎の山田準(やまだ・じゅん, 1867-1952)等が添削しようやく成稿を見たが資金がなく、直ちに出版できなかった。 1908(明治41)年、ラゲは東京の築地教会に転任するが、1910(明治43)年私財と有志の寄付金により『我主(わがしゅ)イエズスキリストの新訳聖書』はようやく刊行の運びとなった。それは直ちに改訂され異版が出ており、通常これを初版としている。これは私訳と呼ぶべきものであるが、日本カトリック教会における確実な、新訳全訳の嚆矢であり、ほとんど標準訳のように長く用いられた。 日本人協力者の手がどれほど加えられ、原稿が訂補されたものかは明確ではないが、その訳文は外国人ばなれした名訳であり、日本語としての完成度も高かった。また、その聖書学的引照・解説もすぐれたものであるとの高い評価を受けている。
(4) 和訳聖書(口語訳)
① バルバロ―デルコル訳
1953(昭和28)年、イタリア出身のサレジオ会士バルバロ(BARBARO, Federico, SDB, 1913-1996)が、カトリックの最初の口語訳である『新訳聖書』を出版した。ラゲ訳に次ぐ完訳聖書である。この聖書は、ラゲ訳同様、ウルガタを底本にギリシャ語聖書を参照して訳出された。本書の改訂版は、1957(昭和32)年に刊行されている。 バルバロはイタリア出身のサレジオ会士デルコル(DEL COL, Aloysio, SDB, 1920-1995)との共訳で旧約聖書を翻訳し、1964(昭和39)年、『旧約新約聖書』を出版した。これはカトリックによる初の旧約・新約聖書の全訳であり、プロテスタント系の聖書が含んでいなかった第二正典を含む全訳という意味でも初めてのものである。 さらにバルバロは、旧約のデルコルの担当部分を改訳し、1980(昭和55)年バルバロ単独名義で『旧約新約聖書』を出版した。
② フランシスコ会訳
バルバロ訳に対し、聖書翻訳で評価の高いフランス語のエルサレム聖書に倣い、フランシスコ会聖書研究所が分冊聖書を刊行した。1958(昭和33)年に最初の分冊『創世記』が刊行され、1978(昭和53)年に新約聖書全巻の翻訳が完了し、1979(昭和54)年にその時点で全文書の翻訳を公刊していた新約聖書の合冊版が刊行された。旧約聖書全巻の分冊版の刊行は、2002(平成14)年に終了した。旧約全分冊の完成を踏まえて、2011(平成23)年に、旧約・新約全37分冊が用語・文体の統一などの作業を経て合冊され、『聖書:原文校訂による口語訳』として出版された。
3.日本正教会による聖書翻訳
正教会は、1861(文久1)年函館のロシア領事館司祭として来日したニコライ(Nikolai(KASATKIN, Joan Dimitriwich), 1836-1912)が日本での宣教を開始し、着実に信徒を増やしていた。彼は先ず、『教理問答』という漢訳カテキズムの和訓を1872(明治5)年に刊行、1877(明治10)年頃には、『日誦経文(にっしょうけいもん)』、『小祈禱書』などの祈禱書も出版していた。1876(明治9)年に、正教会の最初の聖書関係教書である『旧約聖史略』、『新約聖史略』が出版されたが、聖書翻訳についてはカトリック同様に立ち遅れ、明治初期においては、漢訳聖書やプロテスタント刊行教書を用いて布教していた。 1880年代には詳細な注解書の翻訳も複数現れたものの、聖書については翻訳委員社中の『新約全書』訓点版を正教会式に固有名詞を読み替える形で使用するにとどまった。この正教会式の訓点本は1889(明治22)年に公刊された。正教会初の聖書翻訳は1892(明治25)年に現れた上田将(うえだ・すすみ)訳『馬太(マトフェイ)伝聖福音』とされるが、これとは別にニコライと正教徒である中井木菟麻呂(なかい・つぐまろ, 1855-1943)はロシア語の聖書辞典をもとに和訳語の検討を重ね、1895(明治28)年から1896(明治29)年にかけて新約聖書を粗訳、その検討を経て1901(明治34)年に『我主イイススハリストスノ新約』を公刊した。一般にこれは日本正教会翻訳と位置づけられている。 旧約部分についてもニコライは日本での活動初期から翻訳を始めており、1877(明治10)年から1878(明治11)年頃に石版印刷されたと考えられる『朝晩祈祷曁(および)聖体礼儀祭文』に収録された聖詠(詩篇)の抜粋は、日本語訳された詩篇の訳として最古の部類に属するとも指摘されている。聖詠は奉神礼で頻繁に使われるため1885(明治18)年『聖詠経(せいえいけい)』として全訳されたが、他の部分については、各祈祷書の旧約朗読箇所の部分的な訳のみにとどまった。ニコライは没する直前まで祈祷書の翻訳をしていたが、旧約聖書の全訳は完成されないままとなった。 日本正教会訳聖書は、難解であると評されており改訂の必要を訴える声は上がっていたが、今に至るまで当初の文語訳が使用されている。
4.共同訳から新共同訳へ
(1) 共同訳
カトリック教会が1962(昭和37)年~1965(昭和40)年の第2バチカン公会議でエキュメニズムの推進を打ち出し、プロテスタントと共同で聖書を翻訳することが望ましい旨が示された。これにより、各国で聖書の共同翻訳事業が開始されたが、日本においてもその動きが起こった。1965(昭和40)年には日本聖書協会翻訳部とフランシスコ会聖書研究所との会合で新しい翻訳に向けて検討する合意が成立し、翻訳セミナーの開催、検討委員会の答申など踏まえ、1970(昭和45)年に共同訳聖書実行委員会(カトリックとプロテスタントが同数)が第1回会合を持った。その下に各種委員会が編成され、翻訳に当たった専門家はカトリック11名、プロテスタント31名であった。訳語を調整したうえでの翻訳作業は1972(昭和47)年に開始され、ルカ福音書のみの分冊(『ルカスによる福音』)が1975(昭和50)年に出された後、1978(昭和53)年に『新約聖書 共同訳』が出版された。日本で単に共同訳といえば、普通はこの翻訳を指す。
(2) 新共同訳
共同訳は、その地域の文化と言語習慣に添って理解しやすい形で翻訳する「動的等価(意訳)」が重視されたため、礼拝向けではなく、キリスト教になじみのない一般大衆に対し分かりやすい訳文を提供することに重心が置かれた。実際、読みやすくなったという好意的意見が寄せられたが、その一方、厳しい意見も少なからず寄せられた。各派の固有名詞表記の揺れに対応するために、過度の原音主義を採り、従来の慣用と多くの齟齬を生み出したことも批判を招いた。この結果、旧約聖書翻訳の完成を待たず、1983(昭和58)年には表記方針・翻訳方針の転換が行われ、旧約の翻訳と新約改訂は新たな方針に基づくことが決定された。 翻訳のやり直しに際しては、固有名詞の原音主義は原則にとどめて慣用表記を復活させたこと、動的等価に拘らない(逐語訳とする)こと、教会での礼拝や典礼に用いることを考慮することなどが方針として確認されている。旧約聖書のパイロット版として詩篇の抜粋(1983(昭和58)年)、ヨブ記・ルツ記・ヨナ書(いずれも1984(昭和59)年)が刊行され、1987(昭和62)年に旧約・新約聖書からなる『聖書 新共同訳』(単に「新共同訳」とも略される)が出版された。これには旧約聖書続編つきの版もある。続編部分は日本聖公会訳に続くものだが、これは初の口語訳である。 新共同訳は、完成の当初からカトリック教会と日本聖公会では教会において公的に使用する聖書として公認された。なお、前述のフランシスコ会訳では、新共同訳登場以後に合冊された聖書(2011(平成23)年)、新約聖書(新版2012(平成24)年)では、新共同訳に合わせて、イエズスをイエスとするなどの表記の統一が図られている。
5.聖書協会共同訳
新共同訳は、前述のとおり広く受け入れられており、評価もされているが、翻訳方針の変更などに伴う訳語、訳文の未調整部分が課題として残っていた。そこで日本聖書協会は、新共同訳を精査し次世代に向けて新たにどのような聖書翻訳を目指すべきか検討するために、2005(平成17)年に翻訳部を新設し、併せて翻訳理論の研究及び実際の翻訳作業についての調査を行った。また、翻訳事業を開始するに先立ち、2008(平成20)年に共同訳事業推進計画諮問会議の設置を決議し、国内17教派・1団体が委員推薦に賛同した。諮問会議は2009(平成21)年10月に、新しい翻訳聖書のスコポスは「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指す」ことであるとする『翻訳方針前文』を日本聖書協会に答申し、同年12月に同会理事評議員会はこの答申を承認、2010(平成22)年2月にはカトリック中央協議会も臨時司教総会で新しい共同訳事業を承認するとの決議を行ったことにより、新翻訳事業は正式に共同訳事業として開始することとなった。 新翻訳は、新共同訳からの改訂ではなく、原文(底本)から新たに翻訳することとなり、最初の段階から原語担当者と日本語担当者が協力して訳文の作成に当たった。 2018(平成30)年11月、日本聖書協会理事会での出版承認を経て、同年12月『聖書 聖書協会共同訳』が刊行された。協会名義を前面に出すのは、これが初めてのことになる。共同訳・新共同訳と同様にカトリック・プロテスタントが共同で手掛けたものであり、次世代の標準を目指して2010年から約7年間かけて翻訳した。ゼロからの翻訳であるが、固有名詞や書名は新共同訳に準拠しており、また、初版では、協会訳では初めてとなる全体への引照と注が付与された。
参考・引用文献
- 泉田昭『日本における聖書とその翻訳』(日本聖書刊行会、1996)
- 海老澤有道『日本の聖書』(講談社学術文庫、1989)
- 門脇清・大柴恒『門脇文庫日本語聖書翻訳史』(新教出版社、1983)
- 鈴木範久『聖書の日本語:翻訳の歴史』(岩波書店、2006)
- 高橋虔「日本における聖書の翻訳」『日本の神学』23、195-204頁。(教文館、1984)
- 田川建三『書物としての新約聖書』(勁草書房、1997)
- 永井崇弘「漢訳聖書の文書表題について : プロテスタントによる新約聖書を中心に」『福井大学教育地域科学部紀要(人文科学 国語学・国文学・中国語学編)』5、1-24頁。(福井大学教育地域科学部、2015)
- 永井崇弘「モリソンの漢訳新約聖書本文における異同箇所について」『福井大学教育・人文社会系部門紀要(人文科学) 』1、1-17頁。(福井大学教育地域科学部、2017)
- 永嶋大典「邦訳聖書小史」『英訳聖書の歴史』151-184頁。(研究社出版, 1988) 『聖書の世界:総解説』全訂新版(自由国民社、2001) 『日本「キリスト教」総覧』(新人物往来社、1996) 『日本キリスト教歴史大事典』(教文館、1988)